在日中国大使館がXで中国・盧溝橋事件を謀略と発信、日本で反発、研究者が解説

「史実と異なる」日本で論争 中国大使館投稿が呼び起こした歴史の火種

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在日中国大使館のX公式アカウントは14日、盧溝橋事件を日本軍の入念な謀略と位置づけ、中国への全面侵攻の出発点だったとする投稿を行った。この見方に対し、日本では「史実と違う」との反発や、経緯を説明しようとする解説記事が相次いでいる。銃声が響いたあの夜、何が起きていたのか。研究者たちが積み上げてきた像をたどる。

日本軍計画説と史料が示す偶発性

1937年7月7日の夜遅く、北京近郊の盧溝橋そばで日本軍支那駐屯軍が演習しているとき、突然の銃撃があった。日本軍がそこにいたのは、義和団鎮圧後の北京議定書で列強軍の駐屯が認められていたためである。最初の一弾がどこから飛んだのかについては現在も決着しておらず、日本側・中国側いずれの兵士によるものか断定できないとするのが通説だ。多くの歴史研究は、偶発的な小競り合いが、やがて全面戦争への入り口になったと描いている。

事件直後、現地では中国側が非を認める形で停戦協定が結ばれ、日本軍もいったん事態不拡大を模索したとされる。東京の政府と軍中央ではしかし、「この機会に華北で中国側に打撃を与えるべきだ」とする拡大派と、ソ連との対立に備えて対中戦争を避けたい不拡大派が対立し、後者の声は次第に押し切られていった。盧溝橋の銃撃そのものが、あらかじめ練られた日本側の作戦だったと断じる直接的な証拠は、今のところ見つかっていない。一発の銃声よりも、その後の増援決定や政治判断の積み重ねが、戦争への斜面を急にしたと見る方が、史料には近い。

中国共産党・コミンテルンの関与はどこまでか

一方で、日本軍と対峙した国民党軍の内部には、中国共産党の党員や同調者が潜り込み、対日強硬を促していたことが後年の研究からうかがえる。各国の共産党を指導した国際組織コミンテルンは、事件後、中国共産党に対し「あくまで局地的な妥協を避け、日中の全面衝突に導かなければならない」「民衆を動員して国民政府に開戦を迫れ」といった趣旨の指令を出したとされる文書が残る。こうした動きは、偶発的な発砲が長期戦へ転化していく過程で、火に油を注いだ可能性が指摘されているが、全体の流れを一つの謀略だけで説明するには無理もある。

北京近郊ではその後、日本人居留民が200人以上殺害された通州事件が起こり、日本国内の対中感情を一気に悪化させた。さらに、和平工作が模索されていた最中の8月には、上海で海軍士官の大山勇夫中尉が射殺され、第二次上海事変へとつながる。作家ユン・チアンらの著書は、この暗殺の背後に国民党軍内の共産党工作員がいたと描くが、裏付け史料には限界があり、学界の定説とは言いがたい。近衛文麿政権の周辺にソ連情報機関と結びついた人物がいたことも含め、各勢力が謀略を仕掛け合ったのは事実としても、一連の事件すべてが「誰かの計画通り」だったと見るより、偶発と判断の連鎖として捉える方が、より複雑な現実に近づく。

盧溝橋で鳴った銃声の主を今も特定できない。けれど、その後の選択が戦争の坂を転げ落ちる力となったことだけは、静かに思い返したい。

参考・出典

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