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採決の合図が下りると、議場に小さな安堵が走った。ユネスコ総会が、脳や神経の活動を読み取るニューロテクノロジーの扱いを定める初の倫理勧告を採択した。思考の自由と精神のプライバシーを守り、不当な干渉を許さないという原則を国際的に掲げた点が要である。AIの加速と結びつく技術の伸びに先回りし、人権の土台を整える狙いがある。
勧告が示した柱
ユネスコは2025年10月30日〜11月13日の総会会期末、ニューロテクノロジーの倫理に関する初の勧告を全会一致で採択した。勧告は、思考の自由と精神のプライバシー、人格の尊厳を中核に据え、脳活動への不当な干渉を禁じる原則を明確にする。研究や産業の開発には、本人の自発的同意と透明性、監督体制の整備を不可欠とした。
とりわけAIと神経技術の結合がもたらすリスクに焦点を当て、脳データの収集・解析・転用の各段階で最小化と保護を求める。未成年者や患者など脆弱な立場への配慮、差別や監視への転用防止、軍事的利用の抑制といった観点も盛り込んだ。拘束力はないが、各国が制度づくりを進める際の共通土台になる。
ユネスコの勧告は、人権文書と並ぶ国際的な規範枠組みであり、教育や研究倫理の指針、公共調達や資金配分の条件にも影響しうる。発表と同時に、実装に向けた対話や能力強化、影響評価の道具立てが提示され、後追いではなく先手でのガバナンスを目指す姿勢が示された。
広がる技術、揺れる境界
対象となる技術は幅が広い。頭皮上の電極で脳波を拾う装置、脳に電極やチップを埋め込む装置、fMRI（機能的磁気共鳴画像法。血流変化から脳活動の傾向を映す）のような画像技術まで含む。意思伝達が難しい患者のコミュニケーションを支援する取り組みが現場で進む一方、応用範囲は急速に生活領域へ近づいている。
AIの発達により、微弱な信号から心の動きや意図を推定する精度は上がっている。非侵襲の読み取りであっても、繰り返しの学習や個人識別と結びつけば、働きぶりの評価や消費行動の誘導に使われうる。便利さと引き換えに、考えが覗かれるのではという懸念が、日常の道具の設計にまで影を落とし始めた。
米ニューラリンクなどが進める脳内チップの研究のように、身体の外にある端末を思考で操作する試みも進展している。医療の希望を広げる一方で、可逆性や長期安全性、データの帰属、機器の停止権といった論点は未解決だ。今回の勧告は、利便と保護の境界線を引き直す作業を社会全体に促す。
ルールづくりの射程
ユネスコはAI倫理の勧告を2021年にまとめ、各国の制度や企業の指針づくりを後押ししてきた。今回も同じ流れで、国内法や研究審査、学校教育、公共調達などに波及させることを見据える。民間のデバイスやアプリが扱う脳データについても、目的外利用の禁止や説明責任の枠を合わせて整えることが要る。
法制度の整備は時間がかかる。だからこそ、開発現場の実務ルールの更新、救済や苦情処理の窓口、影響評価の標準化といった“すぐにできる合意”が鍵になる。研究助成や保険償還の要件に倫理配慮を組み込めば、安全で役に立つ応用が先に伸びる。権利と技術の二項対立に陥らない設計が求められる。
脳に触れる技術は、人を助ける力と、人の内側を曇らせる力を同時に持つ。今回の合意は、その両義性を直視するための灯りだ。静かな注意力を保ちながら、使い方の選択を積み重ねていく段階に入った。
