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市役所の窓口で、担当職員は高齢女性の首元に目を留めた。深いしわの間からのぞく濃い黒い毛、手やあごにも同じような毛が生えている。違和感を覚えた職員が通報した先で浮かび上がったのは、母親そっくりに化粧を施した57歳の男という異様な姿だった。イタリア北部マントバ近郊で、死亡した母を装って年金を受け取り続けていた疑いのある息子の事件は、静かな地方都市の日常を一変させた。
母の死を隠し続けた息子と発覚の瞬間
警察によると、この男はイタリア北部ボルゴ・ヴィルジリオに暮らす元看護師で、現在は無職とされる。母親グラツィエッラ・ダッロリオさんは2022年に82歳で亡くなったが、男は死亡を届け出ず、その後も母名義の年金が振り込まれる状態を放置していたという。2025年11月25日までに、マントバ警察は男の逮捕を明らかにし、長期にわたる死の隠蔽が疑われている。
発覚のきっかけは、身分証明書の更新だった。イタリアでは身分証の更新は本人が役所に出向く必要があり、男は母親になりきるため、かつらをかぶり、派手な化粧を施し、母の服を身につけて窓口に現れたと説明されている。駐車場の監視カメラには、同じ姿の人物が車を運転して到着する様子も記録されていたが、亡くなった母は運転免許を持っておらず、この点も不審を強める材料になったとされる。
職員は呼び戻しを装って時間を稼ぎ、当局に通報した。警察が男の自宅を訪れると、洗濯室のクローゼットの中で、寝袋に幾重にも包まれた遺体が見つかった。遺体はミイラ化した状態で保存されており、男が注射器で体液を抜き、腐敗を遅らせていた疑いもあるという。検察当局は死因を特定するため司法解剖を命じており、その結果が出るまで男は地元の拘置施設で身柄を拘束されている。
年金不正と制度の隙間が映すもの
男には死体遺棄に相当する遺体隠匿、国家に対する詐欺、なりすまし、公文書偽造など複数の容疑がかけられている。警察は、母親の死後も年金が支給され続け、その資金が男の生活を支えていた可能性が高いとみている。報道によれば、母の年金と不動産収入を合わせ、男は年に数万ユーロ規模の収入を得ていたとされ、個人の事件であっても、社会保障費に与える影響は小さくない額だとわかる。
イタリアの金融警察 Guardia di Finanza の統計では、死亡した人物になりすまし年金を受け取る不正は毎年繰り返され、少なくとも数十人が逮捕されているという。背景には、死亡届を扱う戸籍部門と年金などの行政サービスとの情報連携が遅れがちな構造がある。死亡が速やかに年金当局へ伝わらない場合、支給は自動的には止まらず、家族や周囲の誰かが通報しない限り、振り込みが続いてしまう仕組みが指摘されている。
同国では過去にも、北部の都市で息子が母親の遺体を自宅に5年間とどめたまま年金を受け取っていた事例や、南部で父の遺体をおよそ10年隠し続けていたケースが報じられている。今回の事件は、決して一度きりの異常事態ではなく、高齢化が進む社会で、孤立した家族と緩い行政の網が重なったときに何が起こり得るのかを改めて浮かび上がらせたと言える。
身分証の更新窓口で首の後ろを見つめた職員の違和感がなければ、この家庭の秘密はなお長く続いていたかもしれない。地方都市の役所という日常の場で露わになった出来事は、数字だけでは見えにくい年金制度の歪みと、人知れず追い詰められていく生活の影を静かに映している。
