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物理学者の連名論文が公開され、ニュースが一斉に「宇宙はシミュレーションではない」と伝えた。論文は論理学の古典定理を武器に、宇宙を完全に計算で記述することは不可能だと主張する。もし計算で尽くせないなら、計算で走るシミュレーションも成り立たない。刺激的な結論だが、成立条件や受け止めには幅がある。
数学の切り札で導いた「不可能」
論文は理論物理の専門誌に手紙論文として掲載された。著者はミル・ファイザル、ローレンス・クラウス、アルシド・シャビール、フランチェスコ・マリーノの4人で、大学と研究財団、国立研究所にまたがる布陣だ。掲載日は2025年6月17日。誌面の体裁は簡潔だが、掲げる主張は大きい。宇宙の根底にあるものまで計算で網羅できるとみなす立場に、数学の限界を持ち込んだのである。
論文が拠り所とするのは、ゲーデルの不完全性定理、タルスキの不可定義定理、チャイティンの情報理論的不完全性といった、形式体系に内在する限界だ。著者らは、重力と量子をつなぐ理論が「計算規則から時空が生まれる」という描像を採るなら、世界の完全で首尾一貫した記述は計算だけでは到達できないと論じる。そこで導入されるのが「非アルゴリズム的な理解」という概念で、証明可能性の外側にある真理を扱う枠組みと位置づけた。
この帰結から彼らは一歩踏み込み、「シミュレーションは本質的にアルゴリズム的である以上、宇宙はシミュレーションではありえない」と結ぶ。つまり、もし現実の最深部が非アルゴリズム的なら、どれほど高性能でもアルゴリズムに従う計算機は到達できない、という論理である。数式の上では整った構図だが、物理的世界と形式体系をどこまで対応づけられるかという前提に議論の重心が置かれている点は押さえておきたい。
研究者の言葉と広がる反響
著者のひとりファイザルは、世界の完全な記述は計算だけでは閉じないと説明する。クラウスは、物理法則が時空そのものを生み出すとすれば、計算へ還元する発想に限界があると補う。マリーノは、光学や流体のアナロジー研究で培った視点から、現実のアルゴリズム的側面は模倣できても、より深層の非アルゴリズム的な部分は常に取り残されるとする。いずれも、結論の核心である「非アルゴリズム性」を軸に語っている。
一方で、掲載は手紙論文であり、議論はまだ始点にある。主張は大胆だが、数理論理から物理世界への橋渡しは前提の置き方に左右されるため、今後は数学者や物理学者による精査や反論、定義の明確化が続くだろう。研究体制も多様で、Origin Project Foundation（オリジン・プロジェクト・ファウンデーション）に所属するクラウスの名が連なるなど、学術とアウトリーチの接点に立つ面々が揃ったことも、社会的な注目を集める背景になったとみられる。
シミュレーション仮説は、映画やSFが広め、企業家の発言が火をつけた話題である。測定可能性の乏しさから哲学的仮説にとどまることも多かったが、今回の論文は論理学の定理を導入することで、検討の土俵を「数理の枠内」に引き寄せた。大胆な言い回しが先行しても、核心は静かな数式の組み立てにある。その意味で、議論の重心を派手さから足場の固い場所へ戻したとも言える。
「否定」の射程を測る
別の角度からは、物理法則と計算資源の関係を突き詰めた研究がある。近刊の論文は、計算が物理に縛られる以上、私たちの現実を高精度に再現する「マトリックス型」の仮説は、天体観測や加速器実験が示すスケールまで見渡すと、必要なエネルギーや計算量の見積もりから事実上破綻すると結論づけた。こちらは論理学ではなく、物理の制約から迫る道筋だ。ただし、他の物理定数や法則をもつ別世界の計算機を仮定する余地は残るとして、厳密な意味での不可能までは言い切っていない。
今回の手紙論文は、そうした「資源の限界」による困難ではなく、原理的な「記述の限界」に話を引き上げた。計算が到達できない真理があるなら、計算で動くシミュレーションは根本で現実に及ばない、という主張である。もっとも、非アルゴリズム的な理解を物理理論の基礎に置くことが妥当か、そしてそのことが直ちに「宇宙はシミュレーションではない」という断定に等しいかは、今後の応答で磨かれていくだろう。
現時点で確かなのは、数理論理と物理の接点に新しい論点が置かれたことだ。強い見出しの熱気が引いた後も、定義と仮定、証明の手順を突き合わせる作業が残る。黒板の数式が消されても、残光のようなチョークの粉が、議論の続きがあることを静かに示している。
