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秋の薄曇りの空の下、南三陸警察署の面会室で小さな白い箱が家族の胸に戻った。東日本大震災で行方不明となっていた岩手県山田町の当時6歳・山根捺星さんの遺骨が、2025年10月16日に遺族へ引き渡された。母は「止まっていた時計がまた動き出した」と涙で語り、長い歳月の区切りが静かに刻まれた。
小さな箱を抱く手が震えた
白布に包まれた箱を胸の前で受け取ると、母の山根千弓さんはその場でそっと抱き締めた。2011年のあの日、玄関で「仕事に行くな」と泣いた幼い声が胸に刺さったままだったと語り、「休んで家にいればよかったという後悔、玄関で泣かせてしまったのが最後です」と言葉を詰まらせた。14年7カ月の重みが肩にのしかかった光景が浮かぶ。
父の朋紀さんは「うれしいのひと言です。見つけてくれた人に本当に感謝したい」と短くも強く述べた。家族の時間は震災の日で止まったままだったが、遺骨の帰還が記憶の扉を一つひとつ開けていく。「止まっていた時計がまた動き出したようだ」という表現に、言葉にできない歳月の揺らぎがにじむ。
当分の間は納骨せずに自宅で安置するという。千弓さんは「夫と長男も含め家族4人水入らずで過ごしたい」と話し、「生クリームが載ったケーキが大好きだった。早く家に帰ってケーキをそなえてあげたい」と続けた。家に帰るという当たり前の営みが、喪失と再会の物語に温度を与えているように映る。
骨はどこで、どうつながったのか
現時点で確認されている範囲では、2023年2月に宮城県内で見つかった骨の一部が手掛かりとなった。警察による鑑定で、今年9月に下あごの一部が山根捺星さんと一致したとされ、10月に公表がなされた経緯が伝えられている。発見の地は南三陸町周辺とみられ、海と流れが長い時間をかけて遺留物を運んだ可能性が浮かぶ。
身元確認には、ミトコンドリアDNA型鑑定に加え、歯に含まれるたんぱく質を調べる解析手法が用いられたと一部報道は伝える。歯のたんぱく質に刻まれた情報は経年劣化に強く、災害遺骨の鑑定に有効とされる。結果は「矛盾しない」という慎重な表現で示され、複数の手法で突き合わせる過程が重ねられたとみられる。
なぜ今になって身元がつながったのかという問いには、時間をかけた検査と照合の積み重ねがある。警察と研究機関が協働し、限られた試料から確度を高める作業を続けた末に、家族の名へと線が引かれた。発見から公表、そして引き渡しに至るまでの一連の流れは、急がず誤らずを信条とする現場の姿勢を物語る。
残る問いと、寄り添う時間
東北の海と川では、今も行方の手掛かりを求める捜索が続いている。各県警は沿岸部の巡回や月命日の活動を重ね、技術の進展とともに過去の試料を再検査する動きも広がっている。見つかるかもしれないという希望と、見つからないままの日々が並走し、地域の祈りと記憶が海風に揺れている現状がある。
遺骨が戻ることは、喪失の痛みを消すことではない。それでも、名前を呼べる対象が手元にあることは、悲嘆の過程に一つの区切りをもたらす。写真に語りかけ、好きだったものを供え、季節の移ろいとともに声をかける。日常の断片が、いつか再び物語として編み直されることを静かに示唆している。
10月16日、白い箱は家へ向かった。家族4人で過ごすという短い言葉の中に、失われた時間とこれからの時間が折り重なる。生クリームのケーキを囲む食卓を思い描くと、止まっていた時計は確かに動き出したのだと感じられる。再会の涙は、次の一歩へ背中を押す雫にもなりうる。