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グラスが触れ合う軽やかな音、扉付きの個室から漏れる読書灯、足を投げ出してもなお余るレッグルーム。米国の空の上では、快適さに対価を惜しまない旅の風景が広がっている。航空各社はこの流れを逃すまいと、広い座席と上質なサービスに投資を強め、機内の席配分そのものを組み替え始めた。結果として、馴染み深いエコノミーは静かに後退し、空の等級格差は一段とくっきりと映る。
高くて広い席に、人が集まる
人々が求めているのは、単なる移動ではなく「滞在としてのフライト」だとみられる。静かな扉、横になれるフルフラット、手元で完結するエンタメと食事。出張と休暇をつなぐ「ブリージャー」の定着や、待機を強いられた反動の旅行熱もあって、座席そのものへの支出が正当化されやすい空気がある。特に長距離の国際線では、価格より体験を優先する選択が目立つ。
この潮流を最も分かりやすく示すのが、プライバシードア付きのスイート型座席の拡大である。例えばアメリカン航空は、2025年6月12日に新造ボーイング787-9で扉付きの「フラッグシップ・スイート」を投入すると明かし、同機にビジネス相当のスイートを51席、プレミアムエコノミーを32席配する設計を披露した。座席そのものを“目的地”にしてしまう提案が前面に出ている。
この新機材はシカゴとロンドンなど主要路線に順次入る計画で、同社は今後数年で同タイプの機材を拡充する方針を示した。長距離機でのプレミアム座席とプレミアムエコノミーの提供量を、2030年ごろまでに大きく伸ばすという見通しも語られている。誰に有利なのか。高付加価値の席を選ぶ顧客ほどロイヤルティが高く、航空会社にとっても収益構造を安定させやすい現実が浮かぶ。
見えない線引き、エコノミーの後退
プレミアムを増やすということは、相対的に何かが減るということでもある。現時点で確認されている範囲では、米大手は国際線の広い座席を厚くする一方、国内線の標準的なエコノミーは「横ばいから微減」という語り口が増えてきた。通路を挟んで同じ機内にいながら、体験の落差がかつて以上に広がる構図が生まれていると映る。
機内の“再配分”は細部に現れる。前方区画は扉付きの個室と大型スクリーン、中央区画はより厚いクッションと足元の余裕、そして後方には手荷物スペースやトイレ動線の制約が残る。選ぶ自由はあるが、選ばなければ得られない快適さが増えるほど、選べない側の体験は相対的に目減りしやすい。偶然か、必然か。価格差は体験差に直結するようになった。
ただ、単純な“席の奪い合い”ではない。広い座席は搭載数が限られるぶん、満席率や単価の微妙な変動に左右されやすい。航空会社は路線ごとの需要を読み、季節や曜日で機材や配列を細かく入れ替える。エコノミーを粗末に扱えば評判が崩れ、プレミアムの価値も下がる。後方の満足度を保ちながら前方の対価を最大化する、その綱渡りが続く。
なぜ今、プレミアムなのか
理由は三つある。第一に、企業出張の回復と個人旅行の旺盛な需要が重なり、平均運賃の高い“前方”に資源を振れば収益が安定するという計算が働く。第二に、上位会員制度や提携クレジットカードが、上級座席の選好を強化している。マイルや特典の循環が、前方区画の需要を底上げしているとみられる。第三に、長距離の国際線で差別化する余地が最も大きいからだ。
アメリカン航空は2029年までに787-9を30機導入する計画を置き、長距離機のプレミアム系座席の供給を一段と厚くする。座席数だけでなく、専用ラウンジや機内の食事、アメニティの刷新まで含めて体験全体を作り込む発想である。いわば“運ぶ”から“もてなす”へ。機内は移動の器から接客の舞台へと姿を変え、空の上にホテルのロジックが持ち込まれている。
一方で、消費者にとっての問いは続く。快適さへの投資が旅そのものの充実を生むのか、それとも都市間の“最短移動”という原点から遠ざけるのか。航空各社は高級化の果実を収益に変えられるが、同時に「誰もが利用できる公共性」をどう保つかが試される。空の分断を深めずに、体験の選択肢を広げることができるのかが焦点である。
