瀬美温泉の60歳従業員が行方不明、熊被害の疑いで営業停止、観光と暮らしに波紋

紅葉が色づき始めた川沿いの湯宿に、静かな緊張が走った。2025年10月16日 11:15ごろ、岩手県北上市和賀町の瀬美温泉で、露天風呂を清掃していた60歳の男性従業員が行方不明となり、付近に血痕が見つかった。警察はクマによる被害の可能性が高いとみて捜索を続け、温泉は正午ごろから営業を停止した。北上周辺で続くクマ問題が、観光地の安全と暮らしの距離を改めて問い直している。

温泉街に走った緊張

北上駅から車で約25分、山あいの川に面した瀬美温泉は、露天風呂が名物として知られてきた。16日午前、施設ではいつものように清掃作業が行われていたが、従業員の姿が見当たらず、周囲に血痕が確認された。支配人の通報を受け、警察が現場を規制。観光客は足早に引き返し、静けさと不安が交錯する空気が漂ったとみられる。

露天風呂は建物の西側にあり、川に面している。清掃道具が散乱し、血痕は柵の外へと続いていたという。現場には動物の毛も落ちており、クマが関与した可能性が高いと受け止められている。山からの距離が近いこの立地は眺望の良さを生む一方、野生動物の動線とも重なる。周囲には緊張感が広がった。

瀬美温泉は正午ごろから営業を停止し、宿泊客は全員帰宅した。常連客は「川沿いの露天が気に入っていたので残念だ」と肩を落とした。旅館にとって安全確保は最優先だが、突然の休業は地域の観光にも影を落とす。現場の規制線は関係者の焦りと祈りを映すように、川風の中で張り詰めていたと映る。

何が起きたのか

警察によれば、行方不明となっているのは従業員の笹崎勝巳さん（60）だ。清掃は一人で行っており、露天風呂周辺で清掃用具の散乱が確認された。血痕は施設の柵を越えて外側へと続き、動物の毛も落ちていた。複数の痕跡が重なることから、現時点で確認されている範囲では、クマによる人身被害の可能性が濃厚とみられている。

一方、周辺では数日前にも深刻な事案が起きている。8日には瀬美温泉から西に約1.8キロの山林で、キノコ採りに出かけた男性の遺体が見つかり、クマに襲われたとみられている。警察は今回の事案と同一個体の可能性も視野に捜査を進める考えを示しているが、断定には至っていない。足跡や体毛の分析など、野生動物の特定には時間がかかるのが常だ。

現場は川沿いの斜面が近く、山との境界が曖昧になりやすい地形である。日中でも人通りの少ない時間帯が生じ、餌を求めて移動するクマと人の動線が交差しやすい。気温や餌の実り具合も行動を左右するため、秋は遭遇リスクが高まる季節だとされる。現地の地形と季節要因が重なった可能性が浮かぶ。

広がる警戒と暮らし

北上市はこれまでもツキノワグマの出没や人身被害に関する情報を随時公表し、学校や自治組織と連携して注意喚起を続けてきた。地域の警戒レベルは今年夏以降も上がったままで、わなの設置や巡回など、現場対応が繰り返されている。市域の一部で避難所が自主開設された事例もあり、行政と住民が対応を積み上げてきた歴史があるといえる。

観光の現場でも、朝夕の作業や搬入ルートの見直し、音の出る装備の携行など、日々のオペレーションに安全策が組み込まれている。今回の休業決定は苦渋の判断だが、従業員と来訪者の安全を最優先する旅館側の意思がにじむ。自然の恵みと共にある温泉地は、安心を確保するためのコストと手間を現実に引き受けている。

「露天風呂が有名で景色も良い場所だったので残念だ」。利用予定だった人の言葉には、旅の期待と不安が交錯する。地域の観光が野生動物とどう折り合いをつけるのか。人の活動と野生の行動域の境界をどう描き直すのか。答えは一つではないが、今回の事案はその難題を改めて突きつけていると映る。

求められる備え

現時点で確認されている範囲では、警察はクマの可能性が高いとみて捜索を継続している。周辺に入る必要がある場合は、単独行動を避け、笛や鈴など音の出る装備を携行すること、足元や見通しの悪い場所では立ち止まり周囲を確認すること、生ごみや匂いの強い荷を野外に放置しないことが基本となる。行政や旅館の指示に従う姿勢も重要だ。

同時に、地域としては目撃情報の共有や通学・通勤動線の見直し、被害発生時の連絡経路の確認が欠かせない。市や警察の情報更新は時間とともに変わるため、最新の発表に注意したい。自然の豊かさを観光資源として守るには、野生動物の行動を前提にした「共存の設計」がいる。今回の現場で積み上がる知見は、次の安全に生かされるはずだとみられる。